黒柳徹子の父はバイオリン演奏家!黒柳守綱の若い頃の音楽活動まとめ!

黒柳徹子さんの父である黒柳守綱さんは、日本のクラシック音楽界を代表するバイオリン演奏家です。

戦前は新交響楽団などで、昭和を代表する演奏家として活躍し、個性的な性格と情熱で多くの人々や音楽家を魅了しました。

戦後は東京交響楽団でコンサートマスターとして復帰し、長く日本のクラシック音楽界で活躍、大きな足跡を残しました。

戦中戦後の苦難を乗り越えた活動内容や、黒柳守綱さんの演奏家としての魅力をご紹介していきます。

この記事でわかること
  • 黒柳守綱の経歴
  • クラシック界での活躍
  • 戦中戦後の活動
目次

黒柳徹子の父・黒柳守綱の経歴

黒柳徹子さんの父・黒柳守綱(くろやなぎ もりつな)さんは、昭和を代表する名バイオリニストであり、日本のクラシック音楽界に大きな影響を与えた人物です。

1908年に東京で生まれ、幼少期に父を亡くしながらも苦労を乗り越えて音楽の道を歩みました。

出典:マイナビニュース

写真(昭和13年頃)は左から、母・黒柳朝さん、黒柳徹子さん、父・黒柳守綱さんです。

バイオリン演奏家・黒柳守綱とは?

黒柳守綱さんは、1908年6月20日生まれの日本を代表するヴァイオリン奏者です。

戦前から戦後にかけて、日本のクラシック音楽界の中心的存在として活躍した人物です。

  • 毎日音楽コンクールの審査員を務めるなど音楽文化の発展に貢献
  • 1937年に新交響楽団のコンサートマスターに就任
  • 映画『ゴジラ』では、作曲家伊福部昭の要望を受け録音に参加

黒柳守綱さんは演奏家としてはもちろんですが、教育者としても多くの後進を育てました。

音楽家としての厳しさだけでなく人間的にも非常に情熱的で責任感の強い人物としても知られています。

幼少期の苦労や戦争・捕虜生活の苦難などが、その精神力と人間性の強さ、音楽家としての活動だけでなく家族の絆を守り抜く力になっていたようです。

バイオリンを始めたのはいつ?

黒柳守綱さんがバイオリンを始めたのは、1920年(12歳の時)に三越少年音楽隊に入隊した時です。

三越呉服店に奉公に出た際に三越少年音楽隊に入隊、そこで初めて本格的に音楽と出会いました。

  • 1922年の少年音楽隊解散までの数年間で基礎を築く
  • 宮内省の指導を受けるなど教育環境が整っていた

解散までの約2年間で基礎を磨き、その後さまざまなオーケストラ活動を経てプロのバイオリニストとして成長しました。

黒柳守綱のクラシック界での活躍

黒柳守綱さんは、長年にわたり様々なオーケストラや演奏会で重要な役割を果たしてきました。

黒柳守綱さんは1937年1月に新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)のコンサートマスターに就任しています。

コンサートマスターとは

オーケストラで最も重要な役割を果たす第1バイオリンのトップ奏者のことです。

出典:ジャパンアーカイブズ「新交響楽団」(1938年)

そして多くの人々に影響を与え、後進の育成や音楽文化の発展にも尽力しました。

若い頃の音楽活動

12歳で入隊した少年音楽隊は管弦楽も演奏する吹奏楽団で、ここでバイオリンの基礎を学びながら実践を積みました。

  • 1922年:少年音楽隊解散後、在野のオーケストラや音楽団体で経験を積む
  • 1920年代~1930年代:山田耕筰が率いる交響楽運動にも参加
  • 1932年頃:赤坂のダンスホール「フロリダ」での演奏にも挑戦

新交響楽団での活動

黒柳守綱さんは28歳で新交響楽団のコンサートマスターに就任しました。

コンサートマスターはオーケストラの音楽的なリーダーとして非常に重要であり、黒柳守綱さんはその地位で高い演奏技術とリーダーシップを発揮しました。

  • 1942年からは、東京弦楽四重奏団としても活躍
  • 毎日新聞の優秀演奏家賞を受賞するなど高い評価を得る
  • コンサートマスターとして年末の『第九演奏会』で活躍
  • 今なお続く年末の風物詩の礎を築く

黒柳守綱さんの演奏者としての成果と実績は、日本クラシック界に大きな影響を与えました。

妻の黒柳朝さんとは、彼女が東洋音楽学校声楽科の学生時代に『第九交響曲』公演で共演したことがきっかけで知り合い、その後結婚しています。

戦中戦後の苦難と復帰

黒柳守綱は戦時中、様々な困難に直面しました。

満洲への出征後、戦争の終わりを迎えたもののシベリア抑留という過酷な状況に置かれます。

そして1949年末に帰国、苦難を乗り越えて再び日本のクラシック音楽界で重要な役割を果たし、復帰後の活動で多くの人々に希望を与えました。

満洲への出征・シベリア抑留

1944年、黒柳守綱さんは当時所属していた東京放送管弦楽団(TBS管弦楽団)から召集を受けて満洲に出征しました。

  • その後の敗戦によりシベリアに抑留される
  • 寒冷な気候の中で強制労働を強いられる

その中でも音楽家としての誇りを忘れず、同じ抑留者の音楽家たちと「沿海州楽劇団」を結成し、日本軍の捕虜収容所を回って慰問公演を行いました。

この期間の体験は、黒柳守綱さんの生涯において最も苦難に満ちた時期である一方、精神的な強さや音楽への強い信念を示す重要なエピソードとなっています。

戦後の東京交響楽団での活動

シベリア抑留からの帰国後は、戦後の混乱期に再び音楽活動の場を持ち、東京交響楽団のコンサートマスターに就任しました。

オーケストラの演奏を牽引し、戦後の日本クラシック音楽界の再興に大きく貢献しました。

  • 演奏家としてだけでなく、後進の指導にも力を入れる
  • 毎日音楽コンクールの審査員を務める
  • 1954年公開の映画『ゴジラ』の音楽録音に参加

東京弦楽四重奏団のリーダーとしても活動し、著名な指揮者斎藤秀雄の指導のもとで、芸術的なクオリティの高い演奏を数多く残しました。

黒柳守綱さんは東京交響楽団の顔として長年活躍して国内外の音楽シーンで高い評価を獲得、その功績は今も日本の音楽界に深く刻まれています。

関連記事

あわせて読みたい
【トットの欠落青春記】黒柳徹子・黒柳朝・黒柳守綱の情報まとめ! 黒柳徹子の若い頃や母親・父親と生きた戦後の話を深くまとめています。 それぞれのの人物に合わせて特徴的な内容をピックアップしてるので色々な人に楽しんでもらいたい...

まとめ・FAQ

黒柳守綱さんはいつバイオリンを始めたの?

12歳の1920年に三越少年音楽隊に入隊し、そこでバイオリンの基礎を学び始めました。

コンサートマスターって何?

オーケストラで第1バイオリンのトップ奏者であり、演奏のリーダーです。
指揮者と楽団員の橋渡し役であり、演奏開始の合図や表現の統率も行います。

年末の「第九交響曲」演奏会とは何?

日本独自の習慣で、ベートーヴェンの交響曲第9番を年末に演奏する行事です。
黒柳守綱さんもこの演奏会で妻・黒柳朝さんと出会っています。

戦中・戦後の黒柳守綱さんの苦難は?

1944年に満洲へ出征し敗戦後はシベリアに抑留される厳しい経験をしましたが、抑留中も音楽活動を続け、帰国後は再び音楽家として活動を再開しました。

戦後の音楽活動は?

東京交響楽団のコンサートマスターとして再び活躍し、後進の指導にも力を注ぎました。
映画『ゴジラ』の音楽録音にも参加しています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

目次