黒柳徹子さんの母・黒柳朝さんは、北海道滝川町の医師一家に生まれ、豊かな家庭環境の中で教養を身につけて育ちました。
女学生から音楽学校への進学、音楽家・黒柳守綱さんとの結婚、そして戦中戦後をたくましく生き抜きました。
その人生は、多くの困難に直面しながらも自分らしさと家族への愛を貫いたものです。
晩年には随筆家としても活動し、「チョッちゃん」としてドラマ化もされたその歩みからは、時代を越えて強い共感と憧れの声が集まっています。
そんな朝さんの生い立ちから晩年の活動、人柄まで詳しくご紹介します。
- 黒柳朝の実家と生い立ち
- 黒柳朝の学生時代
- 結婚・戦中戦後の暮らし
- 職業と活動内容
黒柳徹子の母「黒柳朝」の生い立ち・経歴

黒柳朝さんの実家である門山家は、北海道滝川町で医業を営む由緒正しい家柄でした。
厳格かつ豊かな家風が、朝さんの自由な感性や困難を明るく乗り越える力強さのベースとなっていると思われます。
黒柳朝の実家は開業医
門山周通さんは、医学生時代に中国の文豪・魯迅と机を並べた逸話が残るほど、時代の先端と縁の深かった人物です。
- 門山家は代々医師だった
- 門山家は人々から尊敬されてきた名家
- 祖父・門山周智も東京で医学を学んだ
- 山形や北海道で開業・町会議員も務めた
朝さんはこうした家庭のもと、小さい頃から豊かな教養や品格、社会への使命感を自然と身につけて育ちました。
黒柳朝の経歴
幼少期は一時、母の都合で仙台に住んだこともありますが、基本的には滝川でのびのびと育ちました。
滝川は開拓時代から続く農村地域であり、自然に囲まれた環境です。
そこで家族や地域の人々の絆を大切にし、温かい家庭生活を送りました。
こうした医師一家の格式と地域に根ざした優しさが、黒柳朝さんの生涯を通じての力強さと内面から滲み出る美しさの基盤となっています。
黒柳朝の人柄
自身の欠点を率直に受け止め、「欠陥だらけの私とパパが育てた子だから、できなくて当然」と子どもたちに必要以上に期待しない寛容さも特徴的です。
そのため、子どもたちには厳しく指示するよりも、思い切り甘やかして育てることを選びました。
- 「迷惑になるより助けてもらう道を選ぶ」柔軟さを持っていた
- 子どもの命を守るために周囲の助けを積極的に受け入れていた
- 自分ができないことは潔く他人に頼る
質屋で物を売りながらも周囲にものを配るなど、自己犠牲的で人に尽くす姿勢もありました。
このような強さと優しさが共存した人柄、そして柔軟な心構えが朝さんの大きな魅力です。
黒柳朝の学生時代について
黒柳朝さんが育った家庭は、教養豊かで芸術を大切にする環境だったようです。
後の音楽学校進学へとつながるこの教育環境は、朝さんの自立心や表現力を育てる大切な基盤となっています。
女学校時代

4年間の寄宿舎生活を通じて、自立心を養いながら学業に励みました。
- 厳格かつ自由な環境で知性と教養を身につけていきました
- 女学校時代は音楽の才能を認められ、進学の際に音楽の道を勧められるほどでした
- 寮生活では同郷の仲間たちと絆を深め、地域の生活や文化にも触れていきました
この期間に培った精神的基盤が、後の黒柳朝さんの自由で強い個性、そして母としての包容力の源となっています。
音楽学校時代
当時、女性が音楽を専門的に学ぶのはまだ珍しい時代でしたが、裕福な家庭の教育方針と本人の強い意志があってのことでした。
- 在学中はベートーヴェンの「第九交響曲」の演奏会に出演しました
- ホールでの演奏会や合唱団活動を通して実践的な音楽教育を受けました
- 在学中は多くの芸術家や音楽家と交流し、感性と教養を深める貴重な機会となっています
この音楽学校時代に培った音楽的な教養や表現力は、黒柳朝さんのその後の人生の大きな力となっています。
音楽への情熱があった一方で、結婚により夢を途中で断念せざるを得なかった朝さんの人生の転機となったこの時期は、彼女の人生における大切な節目でもありました。
黒柳朝と黒柳守綱の結婚
黒柳朝さんの人生は、教育や音楽学校時代の後に始まる結婚生活と子育て、そして戦中戦後の厳しい時代を乗り越える歩みへと続きます。
朝さんは激動の時代の中でも家族を支え、母としてもたくましく生き抜いた女性でした。
その姿勢は、多くの人々から今なお尊敬される理由のひとつです。
二人の出会い・馴れ初め

守綱さんは当時東京音楽界で注目される若手ヴァイオリニストであり、二人の出会いは音楽活動を通じて自然なものでした。
守綱さんが朝さんを自分の住居に連れ込み、外出時には鍵をかけて留守にするなど、現在で言えば「束縛婚」ともいえるような形で始まったと伝えられています
この関係には周囲も大きく動揺し、両家の反対もあったとされています。
その後、朝さんは守綱さんと共に家族を築き、女優・黒柳徹子さんを含む子どもたちを育てる母親となりました。
戦中戦後の暮らし
黒柳朝さんと家族が過ごした昭和の戦中戦後は、とても厳しい時代でした。
- 物資は極端に不足、配給制で生活が厳しくなる
- 東京大空襲では自宅や学校が焼け落ちるなど多くの被害を受けました
- 生活を守るため、疎開や行商に奔走する日々が続きました
- 日々の苦労の中でも、朝さんは家族を支え続ける強さを発揮しています
守綱さんは家族思いで、厳しい時代の中でも家族の絆を大切にしていたことが知られています。
黒柳朝の職業と晩年の活動
晩年に入り、70歳を超えてから随筆家としての活動をスタートさせ、文章で自らの経験や思いを豊かに表現しています。
※ネット上やドラマでは子どもが「3人」とされることも多いですが、長男を幼いころに亡くしており、実際は4人の子どもを育てています。
随筆家としての活動
- エッセイは子育てや家庭生活の日々をユーモラスで温かみのある語り口で描いています
- 単行本化されベストセラーとなりました
- 「チョッちゃんだってやるわ」「バァバよ大志をいだけ」など多くの著書を発表しました
随筆作品は戦中戦後の困難な生活や母親としての強さ、日常で感じた愛情や喜びを描き、多くの読者の共感を呼びました。
また、1987年には『チョッちゃんが行くわよ』を原作としたNHKの連続テレビ小説「チョッちゃん」が放送され、多くの人に親しまれました。
晩年の活動
2006年には黒柳徹子さんとの共同による最後の著書「チョッちゃんは、もうじき100歳」が刊行されています。
- 文化振興や社会貢献に注力
- 滝川市の名誉市民に選ばれる
- 市の花・コスモスの制定に尽力
- 趣味で収集していた西洋古美術のコレクション約600点を故郷の滝川市へ寄贈
また、海外でも講演活動を行い、カリフォルニアに一時滞在するなどアクティブな老後を過ごしました。
生涯を通じて家族や文化に深い愛情を注ぎ続け、多くの人々に影響を与えました。
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まとめ・FAQ
黒柳朝さんの子どもは何人ですか?
4人の子どもがいますが、長男は幼少期に亡くなったため、実質的に3人の子どもを育てました。
黒柳朝さんはどこで生まれましたか?
北海道空知郡滝川町(現在の滝川市)で生まれました。
黒柳朝さんはどのような職業でしたか?
若い頃は音楽学校に通い声楽を学んでいましたが、主に専業主婦として過ごし、晩年に随筆家として活動しました。
黒柳朝さんの死因は?
2006年に心不全で95歳で亡くなりました。
「チョッちゃん」とは?
黒柳朝さんの愛称であり、自伝的随筆やNHK連続テレビ小説のタイトルにもなりました。
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