黒柳徹子といえば、「徹子の部屋」をはじめとした女優・司会者・ユニセフ親善大使として多方面で活躍する国民的存在です。
その黒柳徹子の父、黒柳守綱(くろやなぎ もりつな)は、日本を代表するヴァイオリニストとして活躍しました。
しかし、その輝かしい人生は第二次世界大戦によって一変します。
この記事では、黒柳守綱の死因や、戦争とシベリア抑留という過酷な経験、そして家族、特に娘の黒柳徹子さんに与えた影響について詳しく解説します。
彼の人生をたどることで、私たちは戦争の恐ろしさと、家族の絆の強さについて、改めて考えさせられることでしょう。
- 黒柳徹子の父、黒柳守綱の死因と生い立ち
- 黒柳守綱がヴァイオリニストになった理由
- 第二次世界大戦とシベリア抑留の壮絶な体験
- シベリア抑留から帰還後の音楽界での活躍
- 娘黒柳徹子に遺したもの
黒柳徹子の父・黒柳守綱の死因は?
黒柳守綱は、シベリア抑留という過酷な経験から帰還した後も、日本クラシック音楽界を牽引する存在として、演奏、教育、録音と多岐にわたり精力的に活動を続けました。
しかし、長年の無理がたたったのか、1983年4月30日、心筋梗塞のため74歳で逝去してしまいます。
シベリアの極寒で命を落とすことなく故郷へ帰れたものの、抑留生活が彼の心臓に大きな負担を残した可能性は否定できません。
黒柳守綱の人生、音楽そして不屈の精神は、今もなお多くの人々に語り継がれています。
黒柳守綱の生い立ち・経歴

- 黒柳守綱は、幼い頃から才能を発揮し、生涯にわたって日本クラシック界に貢献した
- 家庭でも音楽に満ちた生活を送り、娘の黒柳徹子さんの芸術的感性を育んだ
黒柳守綱は幼い頃ヴァイオリンの才能を開花させました。
それが、黒柳徹子さんにも大きな影響を与えているのです。
才能を開花させた若き日々
黒柳守綱は1908年、東京に生まれました。
幼い頃からヴァイオリンの才能を輝かせ、プロの道へ進みます。
1937年には、当時最高峰のオーケストラであった新交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートマスターに就任。
終戦後も東京交響楽団をはじめ、数々の著名な楽団でコンサートマスターを務めるなど、常に日本の音楽界の第一線で活躍しました。
その繊細かつ力強い演奏は多くの人々を魅了します。
演奏家としてだけでなく、ヴァイオリンの普及にも尽力した指導者としても大きな功績を残しているのですね。
1937年1月、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターに就任する。
(引用:Wikipedia)
家族に受け継がれた音楽のDNA
声楽家である妻・黒柳朝との間には三男二女をもうけ、家庭でも常に音楽に寄り添う生活を送っていました。
娘の黒柳徹子さんにとっても父の存在が芸術家としての感性を育む上でかけがえのないものだったでしょう。
徹子さんの著書『窓ぎわのトットちゃん』(講談社)にも、父とヴァイオリンの思い出が温かく描かれています。
音楽が常に満ちあふれる家庭環境は、徹子さんが後に国際的な舞台で活躍する礎となったのは間違いありませんね。
黒柳守綱がバイオリニストになった理由
- 家計を支えるための三越少年音楽隊入隊だった
- 三越少年音楽隊でヴァイオリンに出会い才能開花していく
三越呉服店での丁稚奉公から入った三越少年音楽隊で、黒柳守綱はヴァイオリンと出会いました。
生活のための選択が、やがて彼を日本を代表するバイオリニストへと導く運命の一歩となったのです。
幼少期と家計を支えるための労働
8歳で父を亡くした少年・黒柳守綱にとって、家族を支える道は一つしかありませんでした。
12歳で、東京の三越呉服店に丁稚奉公に出されます。
戦前の日本では義務教育は小学校(国民学校初等科)までだったので、家庭の経済状況によっては12歳前後で丁稚奉公や商店勤めを始めることが珍しくなかったようですね。
丁稚奉公生活の中で、彼の人生を大きく変える運命的な出会いが訪れます。それが「三越少年音楽隊」だったわけです!
当時、子どもを働かせながら技能や文化を学ばせる動きがあり、企業イメージの向上や人材育成を狙う意味合いも強かったといえるでしょう。
三越少年音楽隊もその一つで、1920年(大正9年)に結成され、12〜15歳ほどの少年たちが参加していました。
宣伝活動や文化事業の担い手として活躍していたのですね。
兄の田口修治とともに12歳で三越呉服店で働き始める。1920年(大正9年)に三越少年音楽隊へ入隊する。
(引用:Wikipedia)
ヴァイオリンとの運命的な出会い
三越少年音楽隊は、もともとは吹奏楽団として活動していました。
しかし、宮内省(現在の宮内庁)からの後押しを受け、管弦楽の要素を取り入れることになったのです。
それが、黒柳守綱とヴァイオリンとの運命的な出会いの瞬間でした!
ヴァイオリンと出会ったことで音楽に惹かれていったのではないでしょうか。
生活のために選んだ職場が、まさか後にヴァイオリニストとしての人生を拓く舞台になるとは、不思議な巡り合わせと言えますね。
三越少年音楽隊でヴァイオリンと出会い、その才能を一気に開花させていくことになるのです!
戦争による運命の転機
- 軍の宣伝や慰問活動のために音楽家として活動を中止した
- 父の戦争体験が黒柳徹子の女優活躍の原点となっている
戦争によって自分が愛した音楽活動を一度辞めることになったそうです。
しかし、この経験が後に黒柳徹子が女優として国際的に活動するキッカケになったと語っていました。
音楽家から軍属へ
当時、国全体が戦争に突き進む中で、芸術家もその運命から逃れることはできませんでした。
1944年、彼は軍人としてではなく、軍属として満洲(現在の中国東北部)へ送られました。
この時代の軍属とは、直接戦闘には参加せず、音楽家としての専門性を活かして軍の宣伝や慰問活動にあたる役割でした。
音楽活動は中断され、彼は本来の自分ではない姿へと変えられてしまいました。
また、家族との突然の別れは、幼い娘である黒柳徹子さんの心にも深く影を落とします。
家族に刻まれた戦争の記憶
徹子さんが父と過ごした時間は決して長くはありませんでした。
短い日々の中で、父がヴァイオリンを奏でる姿や、音楽を愛する姿勢は、幼い徹子さんの心に深く刻まれました。
父の存在は、徹子さんが後に女優として、そして国際的な舞台で活躍する上での原点となったのです。
黒柳守綱のシベリア抑留について
- ソ連軍の日本人捕虜として、シベリアに抑留
- シベリア抑留では過酷な環境だった
- 約4年半後なんとか日本に帰還することができている
黒柳守綱は敗戦直前にソ連軍の捕虜となり、シベリアの地で長い抑留生活を余儀なくされます。
命がけで帰国を果たしたものの、体と心に刻んだ爪痕は消えることなく彼の生涯に影を落としました。
なぜ抑留されたのか
黒柳守綱は、1944年に召集されて満洲へ出征しました。
翌1945年8月、日本の敗戦の約1週間前にソ連は日ソ中立条約を破棄して満洲へ侵攻。
圧倒的な兵力の前に関東軍は崩壊し、多くの日本人が捕虜となりました。
黒柳守綱もその一人であり、ソ連軍の捕虜政策に基づいてシベリアへ送られます。
つまり、黒柳守綱が音楽家だから狙われたのではなく、満洲にいた日本人男性の一人として、ソ連軍の労働力確保政策に巻き込まれたということです。
飢えと寒さが命を奪った、想像を絶する現実
黒柳守綱は極寒の地で木を伐り、鉄道を敷設するなどの重労働を強いられました。
音楽家としての感性とはかけ離れた過酷な環境が、彼の心身を蝕んでいったのは想像に難くありません。
シベリアの収容所では、気温が氷点下数十度に達することも珍しくなく、防寒具も不十分な中、与えられたのはわずかな黒パンとスープだけ。
多くの抑留者が、栄養失調、凍傷、そしてチフスなどの感染症で次々と命を落としていきました。
そのような環境下でしたが、黒柳守綱は合唱指揮者の北川剛やチェリストの井上頼豊らとともに「沿海州楽劇団」として慰問演奏を行ったことが記録に残っています。
沿海州楽劇団としての音楽活動が黒柳守綱にらにとって心の支えになっていたのかもしれませんね。
同じく抑留されていた合唱指揮者の北川剛、チェリストの井上頼豊らとともに「沿海州楽劇団」としてハバロフスク地方沿海部の日本軍捕虜収容所の巡回・慰問にあたる。
(引用:Wikipedia)
抑留から解放されたのはいつ?
シベリアでの体験は黒柳守綱の心と体に消えない傷を残しました。
生きて帰れた人々の中にも、重い後遺症や精神的な苦痛に生涯苦しむ者が少な具なかったようです。
黒柳守綱の死因が心筋梗塞であったことは、シベリアでの過酷な体験が彼の体に与えた影響の大きさを物語っているのではないでしょうか。
黒柳守綱が音楽家として再活動したのはいつ?
- 戦前からの経験を活かしコンサートマスターとして活躍
- スタジオ録音、室内楽にも注力した
- 後進の教育にも積極的である
帰国した黒柳守綱は、東京交響楽団のコンサートマスターとして再び音楽に身を投じます。
演奏活動に加え若い才能の育成にも尽力し、その歩みは日本の音楽文化を豊かにしていきました。
東京交響楽団のコンサートマスターとして、音を再構築する
戦前に新交響楽団(現在のNHK交響楽団)で同じ役職を務めていたこともあり、その経験が戦後の楽団再建に大きな力となり、東京交響楽団のコンサートマスターに就任します。
コンサートマスターは、オーケストラの音色を統率し、全体をまとめる重要なポジション。
戦前と戦後で所属するオーケストラこそ異なりますが、いずれも楽団を束ねるコンサートマスターという重要な役職を任されていた点は共通していると言えますね。
このようにして、黒柳守綱は再び第一線に立ったのでした!
黒柳さんの父、守綱さんは、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の首席バイオリン奏者だった。召集で中国戦線へ出征、音信が途絶えた。シベリアに抑留され、49年末に帰国した。
(引用:「スルメが私の戦争責任」 黒柳徹子さんの苦い記憶)
『ゴジラ』の録音にも参加した、幅広い活躍
黒柳守綱の活躍は、コンサート会場にとどまらず、スタジオ録音にも積極的に参加し、その才能を幅広い分野で発揮したと言われています。
特に有名なのが、1954年に公開された映画「ゴジラ」でしょう。
作曲家・伊福部昭が手がけた迫力あるテーマ音楽の録音に参加し、日本映画音楽史に名を残す金字塔の一部を支えました。
ゴジラのテーマ音楽を作曲した音楽家の伊福部昭氏が「徹子の部屋」に出演した際、(中略)黒柳は「だから一番最初のゴジラには私の父のバイオリンが入ってるんです」と明かした。
(引用:デイリースポーツonline)
また、戦前から活動していた東京弦楽四重奏団も継続し、室内楽の普及や後進の育成に力を尽くしています。
大規模なオーケストラだけでなく、小さな編成のアンサンブルでも実力を発揮し、日本の音楽文化の多様な広がりに貢献しています。
若き才能を育てた、もう一つの使命
黒柳守綱は、演奏家としての活動と並行して、後進の指導にも力を注ぎました。
未来の音楽家を育てることに情熱を注ぎ、多くの若手演奏家に大きな影響を与えているのですね。
後に世界的指揮者となる小澤征爾も、黒柳守綱がコンサートマスターを務める姿を見て学んだと語っていたと言われています。(引用:『徹子の部屋』2016年2月2日放送)
黒柳守綱が黒柳徹子に受け継いだ言葉
- 娘徹子さんを尊重し温かい愛情があった
- 黒柳守綱の戦争体験が、徹子さんの平和への活動の根源になっている
黒柳守綱が残した愛情と苦難の経験は、娘・徹子に深く刻まれています。
そして、芸術への情熱と平和への願いは、彼女の生涯の指針となったのです。
「窓ぎわのトットちゃん」に描かれた、父との思い出
世界的ベストセラーとなった彼女の著書「窓ぎわのトットちゃん」には、父親との温かい思い出が綴られています。
黒柳守綱は、徹子さんのユニークな個性や感性を尊重し、音楽や芸術を愛する心を与えました。
父が奏でるヴァイオリンの音色、そして家族に温かいまなざしを注ぐその姿は、徹子さんの人格形成に大きな影響を与えたのですね。
父としての黒柳守綱が見せた眼差しは、幼い少女の世界観を広げるきっかけだったと言えるでしょう。
父の人生が、平和活動の原点に
徹子さんが生涯にわたって「平和」や「子どもの未来」を訴え続け、ユニセフ親善大使として世界の子どもたちのために活動している背景には、父の壮絶な人生が深く影響していると考えられています。
戦争とシベリア抑留という理不尽な経験を強いられた守綱の姿は、徹子さんにとって「二度と同じ悲劇を繰り返してはならない」という強い決意の原点となったに違いありません。
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まとめ・FAQ
黒柳守綱(1908–1983)は、日本クラシック界を牽引した名ヴァイオリニスト。
生活のために入った三越少年音楽隊でヴァイオリンと出会い、1937年に新交響楽団のコンサートマスターへ。
戦時中は満洲へ軍属として従軍し、終戦後にシベリア抑留という過酷な体験を強いられました。
1949年末に帰国すると東京交響楽団のコンサートマスターとして第一線復帰。演奏・録音・教育に尽力し、1983年4月30日に心筋梗塞で逝去。
音楽と不屈の歩みは、娘・黒柳徹子さんの芸術観と平和への眼差しにも確かな影響を残しました。
- 家族への影響:音楽的環境と戦争体験が黒柳徹子さんの活動の原点に
- 死因:心筋梗塞(1983年4月30日、74歳)
- 出自:1908年・東京生まれ。三越少年音楽隊で才能開花
- 主要実績:1937年・新交響楽団コンマス、戦後は東京交響楽団コンマス
- 戦争と抑留:満洲派遣→シベリア抑留(約4年半)。慰問演奏でも活動
- 戦後の貢献:演奏・録音(『ゴジラ』収録参加とされる)・室内楽・後進育成
黒柳守綱の死因は?
心筋梗塞です。1983年4月30日に74歳で逝去しました。
黒柳守綱はいつ・どこで生まれましたか?
1908年に東京で生まれました。
なぜヴァイオリニストの道に進んだのですか?
生活のために入った「三越少年音楽隊」でヴァイオリンと出会い、才能を開花させたことがきっかけです。
三越少年音楽隊とは?
三越呉服店の宣伝・文化事業の一環として1920年に結成された少年楽団で、当初は吹奏楽中心でしたがのちに管弦要素を取り入れました。そこで黒柳守綱はヴァイオリンと出会いました。
若い頃の主要な実績は?
1937年に新交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートマスターに就任しました。
戦争でどのような影響を受けましたか?
1944年に軍属として満洲へ派遣。終戦後はソ連によりシベリアへ抑留され、約4年半の過酷な収容所生活を送りました。
なぜシベリア抑留となったのですか?
敗戦直前のソ連軍侵攻で日本人男性の多くが捕虜となり、労働力としてシベリアに送致されたためです。黒柳守綱もその一人でした。
抑留中は何をしていましたか?
極寒下での重労働に従事する一方、合唱指揮者やチェリストらと「沿海州楽劇団」として捕虜収容所を巡回し慰問演奏も行いました。
いつ帰国し、音楽活動はどう再開しましたか?
1949年末に帰国。直後に東京交響楽団のコンサートマスターに就任し、演奏・録音・室内楽・後進育成に幅広く取り組みました。
映画音楽への関与はありますか?
1954年公開『ゴジラ』の録音に参加したとされています。作曲・伊福部昭氏の音楽収録でヴァイオリンを担いました。
家族・子育てでの姿勢は?
声楽家の妻・朝さんとの間に三男二女。音楽に満ちた家庭で、娘・黒柳徹子さんの芸術的感性を尊重し育みました。
黒柳徹子さんへの影響は?
『窓ぎわのトットちゃん』にも父との思い出が描かれています。父の戦争体験と音楽への情熱は、徹子さんの平和活動・国際的な歩みの原点となりました。
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